P32 原田市長の散歩道 「結婚」  5月の連休の前後に、息子と甥の結婚式があった。式場が東京と名古屋で、神社と専門の結婚会館と異なっていたので、双方の特色もよく分かった。  新郎・新婦が2組とも30歳過ぎであったため、いずれの式も披露宴も落ち着いた感じで、祝辞もよく聞こえ、食事も飲み物もゆっくり味わうことができた。  神社の式は、結婚式が開放的で、能舞台の周りに大勢の人が集まって、華やかな感じであった。  5年前に息子が会社の同僚3人と独立して、コンピューターソフトウエア会社を立ち上げたので、そのメンバーに会うことも楽しみであった。家族ぐるみで出席した彼らは、息子が評している以上にしっかりしていて、むしろ自分の息子よりも頼もしく感じた。  甥の式では、披露宴の最中に、受付から結婚式までの様子がスクリーンに映されたり、自宅でも式の様子をダウンロードできる二次元コード入りのカードが配られたりと映像技術が駆使されていた。  花嫁が両親に向けた感謝の言葉には、心を打たれた。「口には決して出さないが、30歳半ばを越した私が一生結婚できないかもしれないといつも心の中で案じてくれていた父・母の気持ちは、遠く離れていても痛いほど分かっていた。私なりに努力して今日の佳き日を迎えることができ、今まで掛けた心配に心からお礼を言いたい」という内容で、お互いを思いやっていた気持ちが、喜びとともに会場の皆さんに伝わるものであった。  最近の日本では、結婚年齢が上がり、生涯未婚で過ごす人も多くなっている。  国立社会保障・人口問題研究所では、50歳での未婚率が20年先には男性が3人に1人、女性が5人に1人になると危惧している。  この中には、結婚したくない人も含まれているが、男性が結婚に踏み切れない理由の大半は、安定した職業を持っていないことや収入が低いことにより、自信を持って家庭生活を営めないことであり、女性の場合は、理想的な相手がいないことや現状より生活水準が低くなる結婚生活はしたくないというのが理由とされている。  「結婚」を少子化対策の解決策と捉える人もいるが、私は人間が幸せな人生を得るための必然的な営みと考えている。  そのために社会や行政は、可能な限りの後押しをしていいと思っている。 街の写真館 「街の写真館」では、地域やサークルの行事、お気に入りの写真やお子さんの写真などをお待ちしています! 住所・氏名・電話番号・写真のタイトルと簡単なコメントを書き添えて、郵送・Eメールでお送りください。 送り先 〒437-8666 袋井市役所企画政策課シティプロモーション室「街の写真館」 メール kikaku@city.fukuroi.shizuoka.jp @11月の京都・大宮仙洞御所勤労奉仕の団員を募集 写真は、赤坂御用地・春の園遊会(4月)にて。 伝統と格式ある施設での勤労奉仕に興味のある方は、ご連絡ください。 連絡先 静岡県新嘗奉賛会 団長 寺田公嘉さん TEL44-1607 Aわが家の天使。 あいらぶパパ、ママ!! 土屋颯摩くん 〜時を越えて 夢をつなぐ〜 袋井宿開設400年 第3回 久野城と久野氏A  徳川家康の関東移封後の久野城は、戦略的に重要な場所で、東海道の押さえの城の一つでしたが、1600年(慶長5年)に天下統一を成し遂げた家康にとって、久野城のもつ戦略的価値は失われ、1603年(慶長8年)に松下重綱は、常陸小張(現茨城県)に移り、久野城は廃止となりました。その後、下総佐倉(現千葉県)で隠居していた久野宗能が8千5百石の石高で再び久野城へ戻りました。  1609年(慶長14年)に、宗能の孫の宗成が家督を継ぎ、駿府城主の徳川頼宣の家臣となりました。大坂冬の陣では、駿府城番を務め、翌年の大坂夏の陣では大坂で功績をあげました。また、油山寺の三重塔(重要文化財)の完成にも貢献し、1619年(元和5年)に徳川頼宣が紀州徳川家を創設するため和歌山城へ移ると、東国側の守備のため伊勢田丸城(現三重県)へと移り、久野城へは北条氏重が城主となり移ってきます。久野氏は和歌山藩の家老として幕末まで紀州徳川家を支えています。  現在、紀州東照宮には宗能が家康から拝領した鎧が残されています。袋井宿が幕府公認となったのは、宗成が久野城主として活躍していた1616年(元和2年)のことでした。