P30 原田市長の散歩道 蘇った活人剣  可睡齋に新しい「活人剣の碑」が建立されて1年が過ぎた10月中旬、関係者が集まって、1周年記念式典が行われた。  秋空にさっそうとそびえ立つ剣を見上げながら、この壮大なロマンのプロジェクトは、人の輪が結集して大きな力となり、幾多の困難を乗り越えて実現したことを改めて感じた。  今から120年前、日清戦争の講和交渉に来日した清国全権大臣・李鴻章が暴漢に撃たれた時、当時の軍医総監・佐藤進が国の名誉をかけて治療にあたった。 治療中、佐藤が腰に下げている軍刀は何かと李に問われ、「この剣は人を殺すための剣ではなく、病魔を断ち人を活かすための剣である」と即座に答えたことから、李は大層感心し、このやりとりが日本中に広まり、明治33年、可睡齋境内に初代の活人剣が建立された。  第二次世界大戦に入って、剣の金属部分が供出され、石の台座だけが残った碑は、次第に訪れる人も減り、地域の人々からも忘れられかけていた。  3年前、袋井の歴史や文化遺産に光をあてる活動をしている「袋井まちそだての会」の皆さんにより、この活人剣の碑の再建が発意された。  彼らは、まず、可睡齋や佐藤進が堂主を務めた順天堂大学などに出向き、それぞれから再建の意思を確認し、了解を得るところから始めた。  総経費の見積りやそれに伴う寄付金集めもご苦労であったと思うが、最大の課題は、プロジェクトの成否を決定づける剣の制作者の選任であったと思う。  初代の碑が明治時代の日本を代表する彫刻家で高村光太郎の父、高村光雲の作であっただけに、それに劣らぬ人ということで、ふくろい東京交流会などで袋井市ともつながりがあり、現代の金属工芸界の第一人者である東京藝術大学長(現・文化庁長官)の宮田亮平先生に白羽の矢が立った。  最初は固辞していた先生も「袋井まちそだての会」の皆さんの湧き上がる熱意に圧倒されて引き受けてくださり、宮田流活人剣の制作が開始されてプロジェクト成功の道がひらけた。  数多くの関係者が手を結んだ大きな輪と情熱で蘇った活人剣は、佐藤進と李鴻章の友情と日清戦争戦没者の慰霊、そして平和希求のシンボルとして可睡齋の山門から広く世界に向けて輝いている。  街の写真館 「街の写真館」では、地域やサークルの行事、お気に入りの写真やお子さんの写真などをお待ちしています! 住所・氏名・電話番号・写真のタイトルと簡単なコメントを書き添えて、郵送・Eメールでお送りください。 送り先 〒437-8666 袋井市役所企画政策課シティプロモーション室 「街の写真館」 kikaku@city.fukuroi.shizuoka.jp @おしゃれ大好きな女の子です! 1月で3歳になります!元気いっぱいこれからもたくさん遊ぼうね! 大石湖衣菜ちゃん (2歳9か月) Aおばあちゃん  誕生日おめでとう!  5月28日に満100歳を無事に迎え、お祝いしていただきました。ありがとうございます。素敵な笑顔のおばあちゃんです。 松浦さと さん 〜時を越えて 夢をつなぐ〜 袋井宿開設四〇〇年 第8回 郷土近代化の行列  徳川慶喜が将軍職を辞して政権を朝廷に返上した後、戊辰戦争と呼ばれる内乱により、様々な物資や手紙が西へ東へ大量に往来をはじめ、東海道の宿場に再び活気を取り戻させ、世の中は変わり始めました。  髪型も服装も変わり、侍たちは刀を下ろし、かつての幕府の役人は、徳川慶喜とともに駿府にやってきました。そこで旧幕臣らは原野を開墾し、明日の食を得るために畑を耕し、現在の袋井市南部の湊村の海岸では塩を作り始めました。  子どもたちの教育も変化します。政府による学制の発布前から用行義塾という普通科の学校を村人自らが設立し、公立の久津部学校(現・袋井東小学校)の開校後は、英語科の学校として独立して教育を続け、人材の育成にも力が注がれました。  また、新たな交通手段としての鉄道の誘致も積極的に行い、宿場南側に停車場(現・袋井駅)を開設させています。鉄道開通から陸運の物流拠点として発展してきた袋井は、東名高速道路開通や国道整備を経て、現在も交通の結節点として発展し続けています。 袋井市の史実をご紹介してきた本連載も次回が最終回。最終回では、袋井市とあの井伊家の意外な関係をご紹介します。