P02-05 マダム・バタフライ 〜世界を魅了した歌姫三浦環と袋井市のつながり〜  皆さんは20世紀に日本が生んだ世界的オペラ歌手・「三浦 環」をご存知でしょうか。現在放送中のNHKの連続テレビ小説「エール」で、俳優の柴咲コウさん演じる女性歌手のモデルとなった人物と言えば、分かる方もいるかもしれません。  世界を魅了した歌姫である環は、この袋井市とも少なからず関係のある人物です。三浦環と袋井市とのつながりについて紹介します。 問 生涯学習課文化財係 TEL23-9264 【マダム・バタフライ】 作曲家ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)が日本を舞台に作曲したオペラ。明治初年の長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く物語。邦題は「蝶々夫人」。 環の演じる蝶々さんは世界各国で絶賛され、人気を博した。 世界に知られるプリマドンナ 三浦環とその生涯  作曲家のプッチーニに「世界で一人の理想の蝶々さん」と言わしめ、世界各国で2千回にわたりオペラ「蝶々夫人」を演じた環は、父・柴田熊太郎(猛甫)(現・御前崎市出身)と母・永田登波(現・菊川市出身)の長女として、1884年(明治17年)に東京に生まれました。  幼い頃から日本舞踊や長唄を習い、1900年に東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学。滝廉太郎などに師事します。入学の年、陸軍軍医の藤井善一と内祝言を挙げていますが、この縁談は同校入学に反対する父が入学の条件として出したものでした。  卒業後の環は、同学の研究科で声楽を指導。また、藤井と正式に結婚しますが、藤井の仙台転勤にあたり、同行の依頼を断って1907年に離婚します。その後、2人目の夫となる三浦政太郎から求婚を受けるのです。  政太郎は柴田家の遠縁で、幼馴染の環に兼ねてより想いを寄せていました。2人は1913年(大正2年)に結婚し、政太郎の故郷の掛川市でしばらく生活。翌年、夫婦でドイツに留学しますが、間もなく第一次世界大戦が勃発し、イギリスへと移動します。  イギリスで政太郎はロンドン大学に入学。環は同国を代表する指揮者ヘンリー・ウッドに認められ、ロンドン最高峰のアルバート・ホールで公演を行います。これが好評を得て、様々な音楽会への出演依頼が殺到する中、「マダム・バタフライ」への出演を依頼され、1915年(環32歳)に同市のロンドン歌劇場で初めて蝶々夫人を主演し、大成功を収めました。  その後、2人は渡米し、環はアメリカ各地で蝶々夫人に出演。以降も環は、欧米を中心に世界各国・200都市で蝶々夫人の公演を重ね、1935年に最終的に日本に帰国しました。  帰国後も環は国内各地で独唱会を行うなど、精力的に活動していましたが、1946年(昭和21年)に62歳でその生涯を閉じました。 環の夫・三浦政太郎は緑茶中のビタミンCの発見者  環の2人目の夫である政太郎は掛川市原川の出身で、東京帝国大学医学部で助手を務める医学者でした。  音楽家としての環を尊敬し、その生活にも理解を示します。  ドイツへの留学は外国の医学を学ぶためであり、ロンドン留学中にビタミンについて研究。1921年に日本に単身帰国し、医学博士として活躍する中、1924年に緑茶にビタミンCが豊富に含まれ、保存状態によっては2、3年間保有されることを発見します。  この発見は、海外への日本茶の輸出拡大をもたらし、その後の緑茶研究の礎となりました。 夫の死を知るも環は日本に帰らず  政太郎は、海外で活躍する環とは離れ離れのまま、1929年(昭和4年)に51歳で他界します。  環は政太郎の死を電報で知りますが、マダム・バタフライのプリマドンナとして世界中の人を楽しませることが政太郎の供養になると考え、すぐには帰国しませんでした。 袋井市に眠る三浦政太郎環の位牌も袋井市に  環を愛し、研究者としても大きな功績を残した政太郎の墓は、袋井市にあります。三浦家は国本にある正観寺の檀家であり、同寺の墓所で静かに眠っているのです。  妻である環は、生前の遺言に基づき、母・登波とともに山梨県山中湖村にある寿徳寺に葬られていて、政太郎と一緒の墓には入っていませんが、正観寺本堂にある三浦家の位牌には、政太郎の戒名・謙岩義譲居士の隣に、環の名前が俗名のまま記されています。 政太郎の墓に泣き崩れる環  1932年(昭和7年)に一度帰国した環は、上京途中に正観寺の政太郎の墓を訪れ、墓石を抱いて泣き崩れながら、夫の霊よやすかれと歌ったといいます。  その様子は、当時の新聞でも報じられました。 私の見た「三浦 環」 大きな家にたくさんの弟子 “環おばちゃま”との記憶  生前の三浦環と一緒に過ごした貴重な思い出を持つ方が、市内に暮らしています。  丸尾文子さん(89歳・川井西第1)です。文子さんは環の従姪にあたり、幼少(5〜6歳くらい)の頃、よく環の家を訪れていたといいます。  「おじい様やおばあ様(祖父母の永田政蔵・まつ)に連れられて、東京の麹町にある環さんの家(登波の弟・佐一郎の屋敷)によく出かけました。  1回行くと、1か月くらいは滞在しました。環さんの家は大きくて、お手伝いさんが何人もいましたね。  お弟子さんがたくさん稽古に来ていて、私は環さんの弾くピアノのそばにちょこんと座って、ずっと見ていました。  私は環さんのことを『おばちゃま』と呼び、慕っていました」 女学校を卒業したら養子に…  「私が女学校を卒業したら、養子になることが決まっていたけど、その前に環さんが亡くなってしまって」 文子さんは、女学校(今でいう高等学校)の卒業後に、三浦家の養子になることが決まっていましたが、卒業前に環が死去したため、その話は立ち消えとなりました。 環にそっくり?  文子さんは子どもの頃、長崎市のグラバー園にある「三浦環の像」の子どものモデルを頼まれたことがありましたが、当時はまだ幼く、恥ずかしくて依頼を断ってしまったそうです。  また、女学生時代に山中湖にある環のお墓を訪ねた際には、地元の方から「お身内の方だとすぐ分かりました」と声を掛けられたと言います。この時、文子さんは「私の方がきれいなのに」と思ったと、笑って話してくれました。 かつては当たり前のようにみんなが環を知っていた  親族の間に限らず、かつては世間のみんなが、文子さんたちと環の関係、そして袋井市と環のつながりを知っていたといいます。  兄弟姉妹や親戚が集まった際には、自然と環の思い出話で盛り上がったという文子さんですが、生前の環を知る者は、親族の間でも、もう僅かになってしまったということです。 偶然の巡り合わせ?環役に選ばれた人物  平成28年開催の袋井宿開設四〇〇年記念祭で行われた「300人時代絵巻パレード」。過去から現在に至る袋井市のうつろいを再現したこのパレードの中で、当時の「袋井ほっと観光特使」の豊田華乃子さんが、三浦環役で参加しましたが、何と彼女は文子さんのお孫さんです。  環役のキャスティングを知らされた華乃子さんは驚き、「うちって三浦環の身内だよね」と家族に報告。偶然の配役とはいえ、不思議な縁を感じたそうです。 ドラマを機に 今、再び環に光  連続テレビ小説「エール」の放送を機に、環への関心が再び高まってきています。  今から約1世紀前の大正時代から戦前・戦後にかけて、日本人初の国際的オペラ歌手として世界で活躍した三浦環。そして、その良き理解者であり、市内の墓所に眠る夫・三浦政太郎の2人の生き方は、現代に生きる私たちにとっても魅力的であり、感興を呼び起こすものです。 ミニ企画展で2人の歴史や袋井市とのゆかりを解説  市では、2人の歴史を振り返りながら、本市とのつながりなどを解説するミニ企画展を開催します。ぜひ、ご覧ください。 ミニ企画展「三浦環と三浦政太郎」 日時 9月1日(火)〜9月30日(水) ※月曜日、9月23〜25日は休館 場所 郷土資料館(浅名1021) 内容 本市所蔵の資料(環直筆のサイン入り写真・年賀状・短冊・書状)や縁者の方からお借りした写真や手紙、解説パネルの展示など 三浦環について振り返る絶好のタイミング  今回、正観寺や文子さん、その他多くの方々の協力により、記録と記憶の双方から、環と本市の縁について広がりのある情報を得ることができました。人やモノのつながりの中で歴史が語り継がれていくことを強く感じます。ミニ企画展もぜひご覧ください。 生涯学習課文化財係 白澤 崇 学芸員 ◎静岡国際オペラコンクール  環の功績をたたえ、環の没後50年にあたる1996年から3年に一度、静岡県がアクトシティ浜松を会場に開催しているオペラコンクール。 丸尾文子さんをはじめ、三浦環の親族も招かれ、毎回盛大に開催されています。 ◎正観寺にある三浦家の位牌  正観寺にある三浦家の位牌(先祖位牌)には、環の名前が記されています。戒名がなく、俗名のままであるのは、環が亡くなる直前に洗礼を受けているためです。 ◎三浦環の声の碑  牧之原市の平田寺境内には、三浦環の声の碑がありますが、菊川市にある永田登波の生家(丸尾文子さんの実家)にも、環直筆の声の碑が設置されています。