P02-03 戦後80年 戦争が生活とともに在った時代  今年は、アジア・太平洋戦争の終結から80年目となる節目の年です。  袋井市域において計1,760人が犠牲となったこの戦争は、戦地から離れた市域の人々の暮らしにも影響を及ぼしました。今回は、市が所蔵する戦争関係資料を中心に生活環境の中に戦争がどのように関わったのかをご紹介します。 問 生涯学習課文化財係 TEL23-9264 戦争に歩みを進める日本  昭和初期、日本は世界恐慌や戦争に対する不安に包まれていました。  日本は、東洋の一等国であることを証明するため、昭和15年(1940年)にアジアで初となるオリンピックと万国博覧会の開催を予定していました。  しかし、昭和6年(1931年)に起こった満州事変や昭和12年(1937年)から始まった日中戦争の長期化の影響などにより中止となりました。  そして、昭和16年(1941年)、日本は真珠湾でアメリカ軍を襲撃。アメリカ・イギリスに宣戦布告し、アジア・太平洋戦争が開戦しました。 兵士の出迎え・見送り  日中戦争以降、兵の召集が大規模に行われるようになり、村民が入隊した際や除隊した際には、駅のホームで見送り・出迎えが行われました。  上浅羽村(現在の浅羽東・浅羽北地区の一部)では、中遠鉄道(のちの静岡鉄道駿遠線)芝停車場のホームで見送り・出迎えが行われていました。国鉄(現在のJR)・袋井駅でも盛大に行われていましたが、日中戦争が本格化すると、敵による諜報活動防止のため、ホームでの見送り・出迎えの自粛が呼びかけられたといいます。 隠された大地震  昭和19年(1944年)12月7日午後1時36分、紀伊半島東部の熊野灘でマグニチュード7.9の「東南海地震」が発生。東海地方を震度5以上の強震が襲い、袋井市域では143人が犠牲になりました。袋井町西国民学校(現在の袋井西小学校)では20人が死亡し、30人が負傷しました。  余震が続く中、当日の夕方には、アメリカ軍による空襲があり混乱を深めましたが、夜には、地震の被害が少なかった袋井駅付近や豊沢・愛野方面から握り飯が届けられたといいます。  地震の被害に関する情報は国民の戦意喪失につながる恐れがあるとして、新聞・ラジオ等での報道に制限がかけられました。それにもかかわらず多くの義援金が集まり、県内各地や軍隊からの救援もありました。 現代に継承される戦争の傷跡  昭和20年(1945年)に入ると、袋井市域への空襲も激化していきました。  同年5月18日の午前10時30分半頃、アメリカ軍の艦載機が袋井市域上空に飛来しました。艦載機は、空襲に備えて袋井駅の東側の切り通しに退避していた国鉄の車両を狙い、急降下して機銃掃射を行いました。この時の弾丸は、車両内にいた乗客の命を奪い、線路にかかる高尾跨線道路橋の東側の側板を貫き、9か所に弾痕を残しました。  平成20年(2008年)、老朽化に伴い、橋は新しく架け替えられましたが、旧橋の弾痕は新しい橋のたもとに残され、戦争の痕跡を今に伝えています。 歴史文化館ミニ展示 戦争が生活とともに在った時代  本紙で紹介したアジア・太平洋戦争関連資料を展示します。 時 8月1日(金)〜9月5日(金)午前9時〜午後5時(入館…午後4時30分まで)(土・日曜日、祝日休館) 所 歴史文化館 料 無料