P04-05 豊臣秀吉と袋井  戦国時代末期、百姓の身分から一代で天下人へと登りつめた豊臣秀吉は、全国統一を成し遂げ、約100年にわたる戦乱の時代を終わらせました。  その影響は、ここ袋井にも及んでいます。今回は、豊臣秀吉と袋井とのつながりを紹介します。 問 文化観光交流課文化財係 TEL23-9264 久野城主となった松下之綱  1590(天正18)年、秀吉は小田原合戦で後北条氏を滅ぼし、全国統一を成し遂げました。その後、戦国大名・徳川家康が秀吉から関東を与えられ、江戸へ移ったことにより、それまで家康が治めていた遠江(静岡県西部)などには、秀吉の家臣が配置されました。その一人が、久野城主となった秀吉の家臣・松下之綱です。  之綱は、若き日の秀吉を最初に見出した恩人であり、秀吉に武芸や兵法、学問を教えたと伝えられています。その後、秀吉が織田信長に仕え、本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉は織田家中で大きな力を持つようになります。そこで秀吉は、かつて自分を取り立ててくれた之綱を呼び寄せ、自らの家臣としました。  之綱は小牧・長久手合戦、九州攻め、小田原合戦などに従軍し、秀吉の全国統一を支えました。その功績により久野城を与えられると、城を大きく改修します。主要な建物には、当時最先端だった瓦を用いた礎石建物が整備され、一部には石垣も築かれたと考えられています。久野城は、豊臣政権の力を示す城へと姿を変えていきました。 「人事異動」で起きた混乱  秀吉は全国で検地(田畑の調査)を行い、土地の生産力を「石高」という統一基準で把握しました。袋井でも、家康が検地を行い、その結果をもとに寺院の領地(寺領)を保護していました。  しかし、家康が関東へ移り、之綱ら新たな大名が支配者となると、寺領をめぐって混乱が起こり、市内の西楽寺も、寺領の保護を求めて秀吉に訴え出ました。  秀吉は、家康が認めていた寺領を保護する文書を出しましたが、その後も、寺に年貢が納められなかったり、寺領の一部が之綱から引き渡されないなど、問題が続きました。  なぜ、このような混乱が起きたのでしょうか。  支配者が家康から之綱へ交代する際に、寺領の取り扱いについて十分な引き継ぎがされていなかったため、家康が認めていた寺領が、之綱によって保護されなかったのです。秀吉が寺領の保護を命じても、実行するかどうかは現地を支配する之綱に委ねられていました。  これは、袋井が初めて経験する大きな「人事異動」によって引き起こされた混乱だったといえるでしょう。 袋井と秀吉をつないだ「おくりもの」  西楽寺や法多山尊永寺は、正月や鷹狩り、地震などの際に、秀吉へさまざまな品を贈っています。  西楽寺からは梅干しや山椒が贈られ、特に山椒は秀吉から「名物」と評価されたと伝わります。西楽寺にはその際にもらった秀吉からの礼状が残されています。また、法多山尊永寺からは山椒や「唐納豆」、「浜名納豆」が贈られました。  こうした贈り物は、単なる献上品ではありません。寺領を守り、豊臣政権との関係を維持するための重要な役割を果たしていました。 語り継がれる秀吉  1598(慶長3)年に之綱が亡くなると、子の重綱が久野城主を継ぎます。関ヶ原合戦では家康率いる東軍に味方しましたが、その後、幕府に無断で城に石垣を築いた罪に問われ、常陸国(茨城県)へ移され、袋井周辺は再び家康の支配下に入りました。  豊臣家はその後、家康によって滅ぼされますが、江戸時代中期になると、秀吉の生涯を題材とした浄瑠璃や歌舞伎などの「太閤記物」が流行します。之綱も「松下嘉平次」として登場し、秀吉の物語とともに語り継がれました。その人気は袋井にも伝わり、明治初期には宇刈神社の祭典でも「太閤記」の演目が演じられています。  天下統一を成し遂げた秀吉。その足跡は、今も袋井の歴史の中に残されています。 企画展 「豊臣到来!―秀吉と袋井をつないだおくりもの―」  本紙で紹介した古文書や、久野城の発掘調査で見つかった資料を展示します。 時 10月27日(火)〜12月27日(日)(月曜日休館) 午前9時〜午後5時(入館…午後4時30分まで) 所 市郷土資料館 料 無料 ◆詳しくは本紙7ページをご覧ください。