12月2日 この翌日から新暦使用開始

更新日:2023年10月26日

約1ヶ月がなくなった明治改暦

明治5年12月3日は、明治6年(1873)1月1日となりました。

何を言っているのか、と思われるかもしれません。ひとまず、言葉どおりに受け取ってください。

これは、明治期日本での新暦使用に際して、太陰太陽暦から太陽暦に切り替える際、その差となる日を調整するために起こったことです。

ちなみに、和暦と西暦の対応は、上の事情から、明治6年以降でないと、厳密には一対一対応ができないのですが、目安として分かりやすいので、一般に旧暦でも西暦対応の年を記しています。災害史や気象史など、厳密な年月日、時間が必要な分野では、厳密な対応をさせるための研究がされていますので、普段はあまり堅く考えずにお読みください。

明治5年11月9日付け太政官達(第三百三十七号)で、太陰暦(正確には「太陰太陽暦」ですが、暦法の専門家以外には重要ではないことなので、一般には「太陰暦」で問題ないです)をやめ太陽暦を頒布するので、来たる12月3日をもって、明治6年1月1日とする、としました。

しかし、そこには、「ただ、新暦はまだできていないので、できたら頒布する」と、何やら不穏なことが書かれています。

その文面からただよう怪しさのとおり、この改暦は急に発表されました。そのため、国民の間にはいくらか混乱があったようです。特に、頒暦商社の社員たちは、大きな打撃を被ったと言います。

改暦は、新学制の発布や、徴兵令の公布と時を同じくしていたこともあり、余計に民衆の反発を招いたのでは、とする見方もあります。

とにかく、この時期は、様々な改革が相次いだ時期でした(改革がこの時期に集中したことについては、ちょっと話が長くなるので、また機会を改めて御紹介します)。改暦にともない、神武天皇即位紀元(皇紀)が制定され、祝祭日が決められ、週日制(端的に言えば週休制のこと)が導入されました。

ちなみに、「正月」を「一月」と言うようになり、また、それまでの不定時法を定時法に変えたのは、新暦の達の時です。

さて、この急な改暦ですが、公式には、文明開化を推進するにあたり、特に欧米諸国と違う暦法を用いていることによる不便の解消、という理由が述べられています。

事実、岩倉遣欧使節団など、海外に行っていた日本人は、暦法の違いによって苦労していたようで、海外で改暦の報を受けた時、彼らは皆好意的な反応を示しています。

しかし、明治28年(1895)6月に立憲改進党党報局が刊行した『大隈伯昔日譚』にて、改暦当時、留守政府の財政的リーダーだった大隈重信が、改暦の裏話を明かしました。

それによれば、明治改暦には、以下のような裏話があったのだとか。

旧幕府時代には、官吏の給料は年俸制だったため、閏月(太陰暦では、数年に一度、一ヶ月閏月を増やす、という方法で、公転周期とのずれを調整します)があっても問題なかったのですが、新政府は月給制だったため、閏年には人件費が一ヶ月分増えてしまいます。しかし、新政府にそんな財政的余裕はありませんでした。そんな時、明治6年(太陰暦)には閏月があることが分かりました。大隈重信は、ここで新暦にしないと、官吏の給料が払えない、と、新暦使用を断行しました。

明治改暦の裏話については、この回想が唯一の史料です。『大隈伯昔日譚』は立憲改進党の広報のための書物なので、信憑性に難ありですが、この改暦のエピソードが党の宣伝に繋がるかは少々怪しいところですから、決裁の時にその考えが頭にあったということについては、一定以上の実感が含まれているのだと思います。

なにより、このエピソードの信憑性は、実際の新政府の動向からも、なんとなく確認できます。

明治5年12月は2日しかなかったため、官吏の給料はありませんでした。更に言うと、官吏の12月分給料を払わないことを正当化するためなのか、明治5年11月23日付け太政官布告第三百五十九号で、明治5年12月1日・2日を、11月30日・31日とする、すなわち、12月を完全になくす、という案を発表しています(太陰暦では、11月は29日まででした)。

さすがにこれは内部で反発が激しかったようで、翌日、明治5年11月24日付け達で、「第三百五十九号布告で書いたことは取り消すので、布告を返却するように」という、異例の通知が出されました。官吏の12月分給料は、もちろんカットのままでした。

具体的にいくらくらい浮いたのかは不明ですが、官吏の12月給与がなくなったことで、新政府の財政は随分助かったようです。財政的理由からの改暦は、説得力があると思います。

村に新暦がやってきた

三川(袋井市北部)の見取村の地志

『噺伝記』新暦使用開始の記事

それでは、袋井市内の史料から、新暦に対する反応を見てみましょう。

まずは、袋井市北部の見取村(三川)の方が、ちょうど明治6年ころに作成した村の歴史書『噺傳記』という史料を見てみましょう。

この地誌の最後に近い記事が、まさに新暦がやってきた、という記事です(上写真)。

 

一、明治五壬申迄ハ正月元日ヨリ十二月大晦日まで

壱ヶ年と相定メ有之候所、十二月三日ヲ同六癸酉年

一チ月一チ日と御改正被 仰出候ニ付、当年ハ節米に

勘定之無差別、一チ月ニ年礼相宛申候。都而旧暦ノ義ハ

廃シ、新暦可用之事。

 

原文どおりの改行です。句読点は私が補いました。振仮名などは省略しています。

前半部では、端的に改暦の内容を要約しています。

また、後半部には、見取村では、新年の行事予定は既に定めていたけれど、行事は新暦で行うのみとして、旧暦では行わなかった、と書かれています。

このように、年中行事などについては、新暦で行うか、旧暦で行うか、という悩みが新たに生まれた訳です。今でも、旧暦で様々な行事を行っているお家はかなりあると思います。

旧暦に関する記事。明治13年に、旧暦で日付を書いている。

旧暦で日付が書かれている。

見取村は「新暦で行こう!」と決めたようですが、旧暦になじんでいた当時の人の中には、なかなか新暦になじめなかった、という人もいたようです。

浅羽――柴村に住んでいた方が明治期(内容から、おそらく、日清戦争のすぐ後くらいに書いたのだと思います)に書いた回想録に、明治13年(1880)に本家を建て直した時のことが、次のように書かれています。

 

仝十三年ニ本家普請を■■■(た)

旧二月廿一日ニいたしました

 

原文どおりの改行です。「■」は抹消された文字を示しています。抹消部の最後の「た」が少し気になりますが、今回は「た」まで抹消部と解釈します。

ここでは日付を旧暦で書いています。史料を見ると、「旧」の字が小さく、後で書き足したことが明らかです。

旧暦で日付を把握していたので、旧暦で書いてしまい、「あ、今は新暦だっけ」と、「旧」字を書き足したのでしょう。

もっと詳しく知りたい方へ(おすすめの参考文献)

岡田芳朗『明治改暦 【「時」の文明開化】』(大修館書店、1994年)。

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課文化財係

〒437-1102
静岡県袋井市浅名1028
電話:0538-23-9264
メールアドレス:syougai@city.fukuroi.shizuoka.jp

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