4月16日 浅羽村で東北大凶作・桜島大正噴火への義援金を集金

更新日:2023年10月26日

桜島大正噴火

大正3年(1914)1月12日に始まった桜島大正噴火は、桜島が大隅半島とつながった大噴火として知られています。

桜島の五つの集落が溶岩流に埋め尽くされ、その他多くの集落が多量の火山灰に埋没、あるいは火砕流で焼失し、噴火が終息するまでに1年数か月を要しました。日本における、20世紀最大規模の噴火と言われています。

桜島は、昔から活動し続けてきた火山として知られています。記録として残る最古の記録は、和銅元年(708)の噴火です。

数多い噴火の中でも、文明噴火(1471年)、安永噴火(1779年)、大正噴火(1914)の三つが大噴火として知られていましたが、最近の研究で、天平宝字噴火(764年)も同様のタイプの大噴火だったことが分かり、「4大噴火」と言われています。

さて、その4大噴火の代表的存在でもある大正噴火ですが、その発生前後に、南九州一帯で様々な変動が起こっていたことで知られています。

そうした変動が起こっていたものの、当時、鹿児島測候所は、有感地震は桜島外で起こっており、噴火の可能性はない、としていたことから、初動に影響があったとも言われています。もっとも、有感地震が群発しても噴火に至らない事例は多く、現在の科学水準でも、火山噴火の予知は困難だといいます。

桜島大正噴火では、桜島の住民は、135年前の安永地震の経験が語り継がれていたことから、噴火の2日前には一部島民は噴火発生を懸念し、前日には緊迫した事態を察知して、多くの住民が避難行動をとりはじめたために、規模の割には犠牲者が少なかったといいますが、その噴火規模は尋常なものではなく、富士山の宝永噴火を上回ると言います。

浅羽村からの義援金

東北大凶作・桜島大正噴火への義援金の記事

『議事録』

桜島大正噴火に際して、浅羽(上浅羽村のみか、それとも周辺の村と合同かは判然としませんが、おそらく上浅羽村からでしょう)から、被災地に義援金が送られています。

現在のところ、管見の限り、袋井の史料で、桜島大正噴火の義援金に関する史料は1点しかありません。浅羽常設委員『議事録』大正3年(1914)4月16日条です。

 

一、東北凶作地及桜島噴火義捐金、本村長ヨリ徴収方依頼申越ニ付、浅羽出金分金拾壱円五拾銭、徴収方法ハ毎戸金参銭ツ丶徴収シ、不足金ハ土木費ニテ出金スルヿ。

(後略)

 

東北凶作地と桜島大正噴火の義援金について、上浅羽村長から徴収の依頼があった。浅羽からの出金分は11円50銭、徴収方法は毎戸3銭ずつで、不足分は浅羽常設委員の土木費から出金する、とのことです。

東北凶作については、現在資料収集を行っている最中なので、もう少しお待ちください。

前述のように、先ほどの浅羽常設委員『議事録』には、「東北凶作地及~」とありますが、1913年秋の北海道・東北凶作の救済のため、東北出身の原敬内相の働きかけにより、渋沢栄一、益田孝らが東北救済のプロジェクトを立ち上げていました。その発起人会の丁度前日に桜島大正噴火が発生したため、桜島噴火災害への救済活動が合流し、噴火の調査を行ってから活動を開始することとし、大正3年(1914)1月15日に「東北九州災害救済会」が発足しました。この「東北九州災害救済会」が、民間からの義援金を取り扱っていました。

桜島大正噴火は海外でも報道され、アメリカ、中国、イギリス、アフガニスタンから義援金が寄せられました。

ところで、この、義援金を含む諸々の救済活動ですが、過去の災害――特に、1910年の関東大水害時の教訓を参考に行われたそうです。

1910年の関東大水害ですが、この災害を起こしたのは、そう、静岡県にも甚大な被害をもたらした明治43年の台風です(→4月11日の項参照)。

災害の歴史は、過去の災害に学び、少しずつ、防災や災害後の対応、救済策を整備していく歴史でした。近代には、交通の発達に加え、メディアなどの情報技術の発達もあり、災害の経験が、全国的な蓄積となっていきました。

今回紹介した史料のように、袋井とも関係する災害が、思わぬところで日本国内の様々な災害とつながっている、ということもあります。

災害の歴史を調べることは、個別具体的な一つの事例を調べることのみならず、より広い範囲に関係する歴史を調べることなのです。

もっと詳しく知りたい方へ(おすすめの参考文献)

土田宏成『災害の日本近代史 大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書、中央公論新社、2023年)。