4月11日 明治43年大洪水からの復興のため、西浅羽村、『五ヶ年倹約施行細則』を定める
近代浅羽を襲った大災害
『五ヶ年倹約施行細則』
今回紹介する史料(写真)は、ガリ版印刷の冊子です。
こちらの史料は、明治43年・44年の大洪水の際に作成された、「五ヶ年倹約施行細則」という史料です。
西浅羽村で作成されたもので、複数残されていますが、今回は比較的きれいなものの写真を掲載しました。文面は、『浅羽町史 資料編二 近現代』に168号文書として収録されています(pp.278-279)。
明治43年・44年の大洪水は、近代浅羽地域の水害の中でも、大災害の代表として記憶されているものです
明治43年(1910)は、台風の影響もあり、8月7日から10日まで雨が降り続きました。四日間の雨量は浜松で670mmに達し、河川は増水。遠州各地を洪水が襲いました。
豪雨により弁財天川上流(笠原村)で堤防が切れ、洪水は東浅羽村に流れ込み、横須賀掛塚間道路は全部水没。西浅羽村で大囲堤が2箇所切れ、県道上で2尺から2尺7寸ほど浸水。家屋浸水は265戸に及び、田畑収穫皆無は6割に及んだと言います。
西浅羽村は明治44年(1911)4月26日、「五ヶ年倹約施行細則」を取り決め、明治43年8月大洪水からの復興のために、倹約の取り決めを締結するも、明治44年8月に、再度大洪水に襲われました。これが、今回紹介している史料です。つまり、具体的には明治43年の大洪水からの復興のための取り決めですね。
さて、明治44年の大洪水ですが、明治44年8月上旬、台風が熊野灘から伊勢湾に上陸し、長野・新潟両県を通過しました。浜松地方は8月4日朝より雨が強まり、20時頃より暴風雨となりました。4日間の雨量は気田で828mm、浜松で369mm。各地の河川が増水、特に天竜川と太田川流域の被害が大きく、前年崩壊した堤塘全部が崩壊し、また、新たに、諸井村新屋で堤塘が崩壊。東浅羽村では昨年の洪水から二尺増水しました。同村の田畑収穫皆無は8割に及んだといいます。
明治43年(1911)11月、大囲堤の維持を図るため、安永4年(1775)2月の契約に基づき、堤防の修繕に関する取り決め「水害防禦工事申合規約書」が作成されました。
しかし、この防水措置も不十分であり、村々の連合の確立や、行政による援助を求める動きの活発化へとつながっていきました。
明治39年(1906)1月、磐田周智両郡関係町村長12名は、太田川水害予防組合設立を具申していましたが、大正2年(1913)9月、太田川・原野谷川にそれぞれ水害予防組合が組織されました。
大正2年(1913)10月、「原野谷川改修ノ儀ニ付請願」が提出され、水害の根本的解決のため、河川改修工事施工への県費補助を請願しました。同年11月には浅羽五か村総代が集まり、改修工事についての浅羽五か村の負担金が取り決められました。
太田川・原野谷川河川改修工事のため、郡長から政府へ、国庫補助を求めて請願が行われ、約360万円の巨費で、1919年度~1925年度に至る七ヶ年継続事業として国庫補助を受け、県直営工事が着手されることとなりました。
大正10年(1921)に太田川・原野谷川の両水害予防組合が合併し、磐田郡太田川・原野谷川水害予防組合となりました。
大正12年度からは、河川法に基づき、河川改修工事は内務省の直轄経営となり、名古屋土木出張所の分掌区域となりました。
その後、第一次世界大戦、関東大震災などによる事業の繰り延べや延長を経て、昭和8年度に、ようやく太田川・原野谷川の改修が完成しました。
細則の中を見てみると――生活史への扉
さて、この『五ヶ年倹約施行細則』の内容を見てみると、生活の様々なことについて倹約をしよう、と書いてあります。
その倹約規則の逆を考えることで、明治43年(1910)の大洪水直前までの、西浅羽村の生活風景が想像できます。下に書き上げてみましょう。
- 縁組みのお祝いとして、縁組みの翌日に隣家一門を招待し、披露宴を行う。お酒がけっこう多く出たらしい。
- 出儀(詳細不明)及び七夜の祝いでは出儀餅を出す。
- ひな祭りには広く人を招き、贈答行事を行う。
- 兵士(出征者)の送迎の際には饗応をし、旗その他の贈答を行う。
- 神社仏閣などに参拝する時に、餞別や饗応をする。
- 棟上げや引っ越しなどの見舞や手伝いを皆で行い、そのお礼に饗応をする。
- 日待節句(特定の十干十二支の日を待つ講/要するに酒盛りです)には、自分のところで作った作物以外に、よそから農作物を沢山買ってきて、宴会をする(『五ヶ年倹約施行細則』に、わざわざ「可成自作ノ農作物ヲ用ヒ」と書いてあることから、よそから買ってくることに意味があったように思います)。
- 盆祭りには、長行燈・廻り行燈・人形を用い、酒食の饗応を行い、青年が念仏を唱える。
- 葬儀ではお酒や食べ物が沢山出る。
- 葬儀は当日以外にも、外三日・七日など、多く催しを行う。そこでは餅が重要な役割を果たしていた。
- 演劇やその他諸興業が村の娯楽だった。
- 料理店・飲食店の利用が盛んだった。
- 被服・履き物のおしゃれが人気だった。
- 賭博が人気だった。
- 勧進などが盛んに行われていた。
こうして見ると珍しくないことばかりのようにも思えますが、こうした、日常生活の姿はなかなか記録に残らないので(皆さんも、日々の生活を逐一記録したりはしないですよね)、推測できる、ということは重要なことです。
一九一〇年関東大水害
袋井に、いえ、遠州にこれほど大きな被害をもたらした台風が、他の地域に影響を及ぼしていないはずもなく、明治43年(1910)8月の台風は、関東にも大きな被害をもたらしました。これを「一九一〇年関東大水害」などと呼びます。
この時、桂太郎首相兼蔵相は夏期休暇で軽井沢に、内相の平田東助も静養のため厨子に、逓相兼鉄道院総裁の後藤新平は視察のため地方に出張中、陸相の寺内正毅は韓国に、海相の斎藤実も千葉県一宮の別荘に、という具合で、どの人物も歴史の教科書でおなじみですが、当時の第二次桂太郎内閣の閣僚九人中六人が東京にいない、まさにその時に台風が関東を襲った、という災害が、一九一〇年関東大水害でした。
彼らはなかなか東京に戻ることができず、そのこともあって、一九一〇年関東大水害は政府初動が遅れてしまったのですが、前述のとおり、明治43年の台風、水害は、多くの府県にまたがる広範囲の大災害だったため、この時、義援活動が全国的に行われました。
また、この大水害を教訓に、近代日本初の治水長期計画が立ち上げられました。
一九一〇年関東大水害の教訓は、この後、大正2年(1913)の東北大凶作、大正3年(1914)の桜島大正噴火への義援活動などに影響を及ぼしました。
→4月16日
一つの災害の教訓が、後の災害への対応や予防につながっていく。その流れを知り、未来にどのような教訓を残していけるのかを考えることが、災害史の重要な役割です。
もっと詳しく知りたい方へ(おすすめの参考文献)
- 浅羽町史編さん委員会編『浅羽町史 通史編』(浅羽町、2000年)第五編第三章、高木敬雄「浅羽の用悪水と河川改修」。
- 土田宏成『災害の日本近代史 大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書、中央公論新社、2023年)。
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更新日:2023年10月26日