袋井市の平安時代

更新日:2023年06月02日

平安時代とは

平安時代は、794年の平安京遷都以降の時期を指します。終点は、保元・平治の乱あたりから、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)期ころの間に求められます。
平安時代は、古代と中世の境目となる時期です。そのため、財政史や儀礼史など、様々な分野の研究が盛んです。
10世紀後半に画期があると考えられていますが、時代の見方も、古代国家の制度が再編された、すなわち、古代の続きだ、とする見方や、いや、社会や制度がこの時期に大きく変わったが、これは、この後の中世国家のありかたにつながるものだ、として、10世紀後半くらいから中世なのでは、とする見方、10世紀~12世紀に独自性を見いだす見方など様々です。文献資料が少ないこともあり、議論がかなり多い時代です。

橘逸勢

袋井市の平安時代に関する話題として、橘逸勢(たちばなのはやなり)が亡くなった場所は今の袋井市なのではないか、という伝説があります。
橘逸勢は三筆の一人にも数えられる能書です。遣唐使として留学経験もあり、官吏でもありました。
承和9年(842)、承和の変という皇位継承に関わる政変で、橘逸勢は、謀反人として伊豆国に流罪となりました。
伊豆国に流される途中、承和9年(842)8月13日に、橘逸勢は、「遠江国板築駅」という場所で亡くなった、とされています(『日本文徳天皇実録』嘉祥3年〈850〉5月15日条)。
この板築駅を、今の袋井市山梨とする説があります。
橘逸勢が山梨で亡くなった、という伝説を追いかけると、遅くとも江戸時代くらいには語られていたようです。
現在、袋井には、橘逸勢が配流された時に詠んだ歌として、「古里も今ははるかに遠江月はくまなしやまなしの里」というものが伝わっています。表記に揺れがあり、やまなしを「月見里」と書く場合もあります。
この歌の初出を探したところ、19世紀前半に編纂された『掛川誌稿』巻七、山名郡(山本忠英纂輯)「山名郡」「山名郷」に「又上山梨ノ正福寺ニ、橘ノ逸勢本州配流ノ時ヨメルト云伝ル歌アリ、古里モ今ハ遥ニ遠江、月ハクマナシ山ナシノ里」とあるものが古い例のようです。

荘園

律令制では、「公地公民」などと言いまして、土地は国家のもので、その田地を農民に割り当てる、という図式でした。田地を割り当てることを「班田」と言い、割り当てられた田地を「口分田」と言いました。口分田は、所持はできるものの売買などはできませんでした。田地を6歳以上の人に支給し、死亡したら没収することを「班田収授」と言います。
こうした口分田も、すぐに不足し、百万町歩開墾計画(ひとことで言うと、実現不可能な開墾計画)や、その失敗を受けた三世一身法(新しく開墾した田地を、3代にわたり所持することを許可)などが出されました。
ただ、開墾した土地も、いずれは収公されてしまうとなるとやる気がそがれてしまうもの。そこで出されたのが、墾田永年私財法(743年)です。これは、位階によって上限はあるものの、開墾した田地はずっと持っていてもいいよ、というものでした。
墾田永年私財法によって、各地に荘園が作られました(「初期荘園」などと言います)。「荘園」と書くことも多いですが、当時の史料には「庄園」の字がよく使われています。このころの荘園は、支配領域というよりも、開墾予定地と開墾事務所、くらいのものだったようです。
さて、平安時代になると、気候変動や大災害(洪水、旱魃、大地震)などによって、国家財政が危機的な状況に陥りました。国司の下で徴税をうけおっていた郡司(地元の有力者)も没落していきます。
土地制度や税制も変化しました。国の守(かみ/例えるなら、中央から派遣されてきた県知事というイメージです)は受領と呼ばれるようになって、一国内の徴税や納税責任を一身に担うようになりました。
10世紀後半くらいには、徴税も、必要なものを必要なときに調達する、というような形に変化していきます。
いわゆる「摂関期」などと言われるような時期以降になると、私領である荘園も増加していきます。それぞれの荘園がそれぞれの歴史を持っていますが、よく言われるような寄進地系荘園という荘園ばかりでなく、中央の有力者の援助を受けて開発する、というような荘園もあったようです。

日記の時代

最後の国史である『日本三代実録』の記事が仁和3年(887)で終わってしまうと、平安時代のことを今日に伝えてくれる文献資料の数がぐっと減ってしまいました。
特に『三代実録』は、「災害なども可能な限り全部載せる」という編集方針や、詳細な記事が特徴で、後世の書写の過程で「長すぎて書き写すのが面倒だから以下略」などと書かれて記事を省略されていても、それでも写本に残された記事が詳しかったのですから、そのギャップは大きいものです。
法関係の史料も少なく、文書の数も多くなく(奈良時代には「正倉院文書」という数万点規模の文書群がありました)、木簡もほとんど見つかっていないので、平安時代の後半、特に11世紀などは、日本の文献史学の中で、最も史料が少ない時期、と呼ばれています。
それでも、10世紀以降になると、ちらほらと天皇や貴族の日記が残されるようになります。
これ以前にも、業務日誌や個人の日記はあったようですから、10世紀頃には、業務のデータとして、日記を残していこう、とする動きが強くなったということのようです。
貴族の日記の内容は、主に儀礼の記事です。これこれこういう儀礼をやって、こう準備して、当日はこう動いて、というものです。当時の人が儀礼・儀式と呼ぶものは、現在でいうところの書類の処理や政務だったりしますから、要するに、貴族の個人的な日記も、日々の業務を事細かに記録したものでした。
こうした日記は、内容を編集して儀式書(業務のマニュアル書)を作成する、あるいは、何らかの業務が得意な人の日記を見せてもらって、必要分を抄出するなど、業務の先例として利用されていました。
さて、10世紀以降からおよそ12世紀の前半くらいまでの文献資料は、そのほとんどが貴族の日記です。その内容が、おおよそ上記のようなものだとすると、そう、皆様がご想像されるとおり、当時の地方の記録は、ほとんど残っていません。
日記を残した貴族と関わりがある、とか、あるいは珍しい話を聞いてきまぐれに書き残した、というようなことがなければ、地方のことはほとんど書かれないのです。
ということで、袋井市の平安時代については、残念ながらほとんど文献資料が残っていません。

10世紀以降の袋井

前述のように、10世紀以降の平安時代は、地方の史料が残っていません。そのような中で、袋井市域では、笠原牧だけは、断片的ながら記述が残っています。
笠原牧の初出は『貞信公記抄』承平元年(931)2月2日条。『貞信公記抄』は、関白藤原忠平(諡号が「貞信公」)の日記を、忠平の息子の実頼が抄出したものです。
さて、その『貞信公記抄』の記事ですが、忠平が、笠原牧に関する書類を受け取った、という簡単なものです。
笠原牧は、小笠山一帯に広がっていた牧で、藤原忠平以後は、その息子の師輔、そして、兼家―道長―頼通と、政権を握った、忠平の子孫に伝領されました。
ちなみに、家職として摂関の職を継承する家としての「摂関家」の成立は、院政期の藤原忠実(頼通のひ孫)の頃と考えられますから、この時期の忠平の家は、正確には「摂関家」とは呼べません(とはいえ、分かり易いので、よく「摂関家」と呼ばれています。専門家以外は気にしなくてもよいでしょう)。
笠原牧で育てられた馬は、贈り物としてやりとりされていたようです。『小右記』長徳3年(997)10月28日条では、太皇太后昌子内親王から、藤原実資に笠原牧の馬が贈られています。
このように、馬を庭に引き出して贈る贈り物を「引出物」と呼びます。
ちなみに、藤原実資の日記『小右記』ですが、10世紀末~11世紀初頭の最重要史料です。この史料がなければ、この時期のことはほとんど全て分からなかったと言っても過言ではないほどの史料です。
さて、話を笠原牧に戻しますと、『小右記』には、笠原牧の殺人事件についての記事が詳しく載っています。
この他、12世紀初頭には、笠原庄で横領事件が起こっています(『中右記』嘉承元年〈1106〉9月12日条、『永昌記』嘉承元年9月9日条)。『中右記』も、12世紀の最重要史料です。
ちなみに、『大右記』という日記もありますが、こちらは断片的にしか残っていません。また、『小右記』『中右記』『大右記』の筆者は、それぞれあまり関係がありません。
事件ばかり起こっていて、紹介がしにくいのが悩みどころではありますが、『中右記』の記事で気になるのが、笠原庄の持ち主が、左大臣源俊房であることです。
源俊房は、西楽寺縁起で、平安時代に西楽寺(春岡)の復興を援助したと言われている、源顕房のお兄さんです。彼らの家は頼通の家系の一員でもある源氏で、村上源氏と呼ばれています。俊房が笠原牧を持っていたのは、頼通との縁によるもだと思いますが、村上源氏はどのくらい遠江に影響力を持っていたのでしょうか。西楽寺縁起などの文献を読む上で、興味深い視点です。

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