袋井市の鎌倉時代

更新日:2023年06月02日

鎌倉時代とは

鎌倉幕府があった時代を鎌倉時代と呼びます。鎌倉幕府が倒れた年は1333年ですが、鎌倉時代の成立年については諸説あります。
鎌倉幕府の成立年は、かつては1192年と教えられていましたが、最近の教科書では1185年とされているようです。
成立年は諸説ありますが、そのほとんどが、源頼朝が朝廷から何らかの公権を与えられたタイミングを取り上げています。
  • 1180年 頼朝の軍事政権が南関東に樹立された年。
  • 1183年 朝廷が頼朝の東国支配権を実質的に認めた年(「十月宣旨」)。
  • 1184年 公文所・問注所が設置された年。
  • 1185年 朝廷が、頼朝による守護・地頭の設置を認めた年(「文治勅許」)。
  • 1190年 上洛した頼朝が朝廷から右近衛大将に補任された年。
  • 1192年 頼朝が朝廷から征夷大将軍に補任された年。
1185年説は、守護と地頭の設置に注目したものです。守護とは、軍事動員を一国単位で行う担当者のことで、地頭とは、戦争の中で敵から没収した土地を与えられた人のことです。
戦争の中で生まれたものですから、地頭などは、その成立に公権移譲がどれほど関わるものか、疑問が生じます。実際、頼朝による敵の所領没収(占領)と没収地給与は1180年から行われています。
鎌倉幕府は、段階を踏んで成立していったもので、何年に成立したとはいえない。そのような説もあります。
鎌倉時代は、初の武家政権が樹立した時代です。鎌倉幕府は、朝廷を中心とする国家体制のもとで、全国的に軍事・警察部門を管轄する「軍事権門」であり、朝廷に対して高い自主性を持っている点に特徴がある、と言われています。
高い自主性を持っている、と言っても、鎌倉幕府も、その後の室町幕府も、自分たちは朝廷を経済その他の面で支えるべき存在だ、と認識していたようですから、結果として自主的だっただけで、本人たちは、あくまで朝廷の武力部門だという認識だったのかもしれません。

浅羽庄司宗信

平安時代、各地に荘園ができた、というお話をしましたが、浅羽庄という荘園も成立していました。鎌倉時代(正確には治承・寿永内乱期)に、浅羽庄司宗信という、浅羽庄の管理をしていたらしい人物が登場します。
宗信は、いわゆる源平合戦の中での軍事動員に関わって登場します。
治承4年(1180)、安田義定が遠江国守護(軍事動員担当者)に補任されました(『吾妻鏡』治承4年〈1180〉10月21日条)。
義定は守護として、平氏襲来に備えて人を集めていたようですが、浅羽庄司宗信と相良三郎は義定による動員に従わなかったようです。義定は「彼らは私を侮っています。野心を持っています。今、彼らの一族の多くは平家に従っています。処罰してください!」と、鎌倉にうったえています(『吾妻鏡』治承5年〈1181〉3月13日条)。
結局、宗信は、その所領を収公されてしまいますが、その後、浅羽庄の内、柴村だけは返してもらえました(『吾妻鏡』治承5年〈1181〉4月30日条)。
その後も宗信はちょこちょこ歴史に登場します。彼の詳しい人生はよく分かりませんが、がんばっていたようです。
ところで、宗信が没収された浅羽庄ですが、安田義定に給与されていたようです。
義定は、朝廷から遠江守に任じられるなど、頼朝の統制から外れた動きをしていたこともあり、頼朝に誅殺されてしまいます(和田義盛が刑を執行したそうです)。
その時、安田義定の浅羽庄地頭職が没収されています(『吾妻鏡』建久4年〈1193〉12月5日条)。「職」は、今で言う「権利」のような意味です。その後、浅羽庄地頭職は加藤景廉という人物に給与されましたが、その景廉も、梶原景時の乱に連座して所領を没収されたそうです。

鎌倉時代に「ふくろい」が初めて文献に登場、か?

高階宗成という人物が正安2年(1300)に書いた『遺塵和歌集』の中に、弘安年間(1278~88)に京から鎌倉に向かう旅の様子を、東海道の宿駅名などを交え、七五調で詠んだ長歌があります。
その中に、「なくふくろふの もろこゑは」という部分があり、この箇所が「池田」(現磐田市)と「かけ川」(掛川)の間であることから、「ふくろい」を「ふくろふ」(梟)にかけて詠んだものだと推測できます。
「ふくろい」という表記ではありませんが、「袋井」の地名が初めて登場した(かもしれない)、重要な文献です。

源朝長(みなもとのともなが)

平治元年(1159)に起こった平治の乱で、源義朝は平清盛に敗れました。この時、東国に逃れる中で、義朝の次子朝長は美濃国青墓(現岐阜県大垣市)で死去、三子頼朝は伊豆に流されました。
さて、青墓で亡くなった源朝長と関わる伝説が袋井市に残されています。
袋井市友永に残された、地名の由来を説明する伝説で、曰く、朝長は美濃国青墓宿で自害したが、その家臣大谷忠太が首を持って、袋井市の友永に埋めたのだとか。友永の近くには大谷という地名もあります。
この伝説は、江戸時代に内山真龍という人が編さんした『遠江国風土記伝』という書物に紹介されています。割と古くに成立した伝説のようです。
友永では現在でも、源朝長の霊を祭る祭礼が行われています。「源朝長公御祭礼」という名前で、袋井市指定無形民俗文化財になっています。
時折、「源朝長公御祭礼の旗には何て書いてあるの?」というお問い合わせをいただきます。見たところ、篆書体で「朝長霊」と書いてあるようです。

久野氏が歴史に登場

袋井市の指定文化財にもなっている久野城は、15世紀末の明応年間(1492~1501)に築かれたお城ですが、久野城築城に関わった久野氏が歴史に始めて登場するのは、鎌倉時代末のことです。
登場と言っても、正確に言えば、幸運にも現存した、久野氏が登場する現存最古の史料、というべきものですが、それは、なんと平泉の中尊寺に伝わる文書です。
1303年の文書に、弘安年中(1278~1288)に、遠江久野氏出身の乙増丸という人物が中尊寺にいた、ということが書かれています。関連史料もなく、なぜ乙増丸は中尊寺にいたのか、など、詳細には不明なことも多いものの、遠江久野氏が13世紀にさかのぼることを示す、興味深い史料です。

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