袋井市の奈良時代

更新日:2023年06月02日

奈良時代とは

奈良時代は、平城京へ遷都した710年から、長岡京に遷都する786年までを指します(間に頻繁に遷都していた時期もありますが)。とはいえ、「奈良時代」と言う場合には、長岡京から平安京に遷都する794年までの期間も含めることが多いようです。
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や大宝律令(たいほうりつりょう)に次いで、757年に養老律令(ようろうりつりょう)が施行されました。
こうした律令(法律のことです)による国家体制を、「律令国家」と呼びます。律令は実際にどのくらい効力があったのか、実際にはいつごろから効力を発揮したのか、など、律令は人気のテーマで、様々に議論されています。
当時の木簡などを見ると、8世紀前半以前には、大和言葉を表す際に、様々な漢字を当てていたものが、律令施行の頃から、次第に、大和言葉に対応する漢字が固定されるようになり、さらにその組み合わせは、律令に書かれたものが多いとのことで、律令は施行直後から広く読まれていたのかもしれません。
この律令や、格(キャク/追加法)、式(シキ/施行細則)によって、税制なども定められていました。地方のことも規定があり、当時の袋井市域も、その規定の中にありました。
また、奈良時代は、様々な文献が作成された時代でもあります。上記の律令はもちろん、712年には『古事記』、720年には『日本紀』(=『日本書紀』)が編さんされました。このほか、行政文書も数多く作成されており、奈良時代は、日本古代史の中で最も多くの文献資料が残っている時代です。
ちなみに、『日本書紀』からはじまる国史(6つあるので「六国史」〈リッコクシ〉と言います)の内、奈良時代のことが書かれているのは、2番目の『続日本紀』(ショクニホンギ/797年完成)です。

袋井市の奈良時代―郡が設置される

奈良時代は、日本古代史で最も文献資料が多い時代です。とはいえ、袋井市域に関する資料は、残念ながらそれほど多くありません。
残っている史料は、地方制度に関する断片的なものです。奈良時代の少し前、和銅2年(709)2月20日には、遠江国長田郡を分けて、長上・長下の2郡を設置したといいます(『続日本紀』/浅羽は、この長下郡に属していたらしいです)。
『続日本紀』によると、養老6年(722)2月16日に、遠江国佐益郡八郷を分割して、山名郡を設置した、と言います。現代にも残る、「山名」という名前の登場です。
神亀3年(726)には、遠江国5郡に水害があり、その後3年間、中央から補助を受けたと言いますから、そのころから、水害は大きな課題だったのでしょう(『続日本紀』神亀3年12月丁卯条)。

木簡の時代―山名郡が進上した中男作物の堅魚

奈良時代は文献資料が多いと言いましたが、1961年に、平城京で木簡が見つかってから、奈良時代の文献資料は、急激にその数を増加させました。今では、何十万点以上もの木簡が見つかっています。
木簡の定義もいろいろと議論があるのですが、一番広い木簡の定義は、「木に墨書したもの」というものです。
木簡は、一枚に一項目ずつ書いて、それを並び替えて情報整理を行う、情報整理用のカードとして用いられたり、今と同じように、荷札として用いられたりしました。
ちなみに、日本では竹簡は見つかっていないのですが、それは、中国では竹簡は巻物として、紙と同じ使用方法だったのが(木簡は情報整理カード)、日本には、紙と木簡が同時期に舶来したので、竹簡より文字が書きやすい紙(一つの竹簡の幅は、筒を割っているのでかなり狭く、字が書きにくいのです)が使われ、不便な竹簡は使われなかったのだ、と言われています。
さて、上で紹介した、荷札として用いられた木簡の中に、袋井と関わるものがあります。
昭和38年(1963)、平城宮内裏北方官衙地区のゴミ穴から、袋井に関わる木簡が発掘されました。
天平17年(745)に、遠江国山名郡が中男作物の堅魚(カツオ)10斤を進上した、という内容です。何月のことかは判読しにくくなっているので詳らかではありませんが、文字は「十」月か、と推定されています。切込のある木簡で、その切込に紐を括り付けて荷札として用いたのだと考えられます。
この木簡は、早い時期に見つかったものの内の一つだったので、多くの木簡の中の一つ、という扱いではありますが、割と多くの研究で触れられています。

奈良時代の「堅魚」

木簡には、「中男作物」「堅魚」など、気になる語が登場していますから、語の確認をしておきましょう。
まずは「堅魚」について見ていきます。
『和名抄』という辞書から、「堅魚」が「カツヲ」と読まれていたことは分かるのですが、ソウダガツオやマナガツオなども「カツヲ」と呼ばれていたようで、奈良時代の「堅魚」の細かい品種は特定できないそうです。
また、「十斤」という単位について、『延喜式』神祇三などによれば、堅魚は11斤10両で1籠とされているのですが、この中途半端な数は、奈良時代には、大斤、小斤という二つの単位があったことによるものです。
小斤35斤を大斤に換算すると11斤10両2分4銖となります。その端数を取った11斤10両が1籠となりました。
山名郡の木簡の場合は「十斤」ですから大斤でしょう。大斤1斤が約671gですから、6.7kgくらいでしょうか。
ちなみに、奈良時代には、堅魚1本を数える時は1節、2節、と数え、複数本をまとめたものは1連、2連と数えていたようです。1籠は、「盛」という単位で数えられていることもあります。
堅魚がどういう形で都まで送られたのか、という点については、いろいろと研究がありますが、詳しくは分かりません。
なんらかの保存処理はされていたはずですが、今の本枯節はもっと後の時代に生まれたものですから、奈良時代にはもう少し生々しいものだったと思われます。

中男作物(ちゅうなんさくもつ)

中男作物。聞き慣れない語だと思います。簡単に言ってしまうと、中男(17~20歳)によって納入される税です。国ごとに納入する品目が決まっていたようで、10世紀初めに成立した『延喜式』に一覧があります。
中男作物は、租庸調の内の調(もとは共同体内における下位者から上位者への供給制度〈ツキ〉。それが王権への奉仕〈ミツキ〉となったものが、定量化・定額化されて税となったもの。具体的な納める品目は衣料品)の付加税が変化したもので、調だけではカバーできない、中央での必要物資を補うための税と見られています。
上に述べたように、元は「調副物」という調の付加税なのですが、それが変化したのは、養老元年(717)のことでした。
調副物及び中男の正調を廃止。そして、必要なものは、所司(担当部署。ここでは民部省)が年ごとに計上して、各国に、中男を使役して作らせ、中男が足りない場合は、雑徭を使役して進上するよう命じました。これが後に「中男作物」となったとされています。
山名郡の木簡の例などもありますから、実際は、国単位ではなく、郡単位で取りまとめて進上することが多かったようです。また、「正丁作物」と書かれた史料も見つかっていますから、中男が少ない地域では正丁が進上したようです。
以下では、遠江国に賦課されていた中男作物の品目を見てみましょう。
『延喜式』主計上にその一覧があります。主計寮は、税務と財政を司った部署です。延喜主計式下には、帳簿の書式と監査の仕方が書いてあります。
遠江国の品目は木綿、ゴマ油、トリなどのキタヒ。キタヒは干し肉のことです。
遠江国の品目には「堅魚」がありません。もしかしたら、地域の生産の実態にあわせて、新たに納めさせたものかもしれません。

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