大門大塚古墳

更新日:2022年07月14日

大門大塚古墳について

大門大塚古墳は、「高部の石棺」と呼ばれ、後醍醐天皇の皇子の墓として古くから知られ、江戸時代後期の地誌にも記載されています。

明治16年(1883)3月に静岡県庁から派遣された官吏の立ち合いのもとに、地元住民が多数参加して発掘が進められ、主体部から数多くの遺物が出土しました。当時の記録によると、これは明治政府による陵墓取り調べの一環として実施されたものでした。その後、昭和50年代後半、古墳の保存計画が持ち上がり、その構造を明らかとするため発掘調査が昭和62年2月に実施されました。

調査の結果、直径約26mの円墳で、その周囲には深さ約1.5m、幅約5mの周溝が全周することが明らかになりました。葺石や外護列石等は無く、旧『静岡県史』第1巻には墳丘近くで埴輪片の拾得があったと記録されていますが、埴輪の存在は確認できませんでした。

墳丘はほぼ平坦な古墳時代の旧地表面に、すべて盛土により築かれています。その基本的な構築技法は、まず周縁に土塁状の堤を設け、その内側に土を充填して、順次高さを増していくというものです。この堤の設定には土のうが用いられていた可能性があり、注目されるポイントとなっています。

大門大塚古墳

大門大塚古墳

埋葬施設について

埋葬施設は、明治16年の発掘によって大きく改変されていて、旧状を残す部分は多くありませんが、基本的には奥壁と左右の側壁は楕円形礫を小口積で構築したもので、奥壁では約1mの高さの場所に、板状石を2枚並べ、その上にも礫が積まれています。旧『静岡県史』第1巻によると、「石廊中央の大石2個により前後に分かれ、前室には丸石が詰め込まれていた。遺物は前室に置かれてあった」との記載から、玄室と羨道の床の高さが違う伊勢湾岸地域に多く見られる「竪穴系横口式石室」の範疇に入る構造の玄室です。平面形は長方形で、最大幅1.6m前後、全長は残存している範囲で3.6mを測り、南東方向に開口しています。

出土遺物について

出土遺物は、

今日に伝わるものとしては、須恵器坏蓋9点、坏身11点、高槻1点、平瓶1点、有蓋脚付短頸壺1点、器台1点、土師器坏蓋2点、坏身2点、大刀1口、鉄剣2口、鹿角装刀子1口、鉄鏃3本、鉄地金銅張製f字形轡鏡板1対、鉄地金銅張製楕円形轡鏡板1対、鉄地金銅製剣菱形杏葉5点、かこ1点、辻金具5点、銀環1対、銀製空玉8個、紺地黄色斑文付トンボ玉8個、紺色ガラス玉106個、碧玉製管玉13個、銅製三神三獣鏡1枚、銅製獣形鏡1枚があります。

出土から100年以上を経過して、少なくとも須恵器提瓶・須恵器はそう・土師器高坏・金環・紡錘車、若干の鍔等の鉄製品や玉類が失われてしまいました。

大門大塚古墳出土土器

出土土器

大門大塚古墳金属製品

出土金属製品

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課文化財係

〒437-1102
静岡県袋井市浅名1028
電話:0538-23-9264
メールアドレス:syougai@city.fukuroi.shizuoka.jp

みなさまのご意見をお聞かせください(生涯学習課)

返信を希望される方は、住所・氏名・連絡先(電話番号・Eメールアドレス)を記載して下さい。

このページの情報は役に立ちましたか?
このページの情報は見つけやすかったですか?
このページに関してのご意見がありましたらご記入ください。