久野城について

更新日:2022年07月05日

はじめに

久野城址はJR東海道線袋井駅から北東約3kmに位置しています。標高34mの山頂に本丸を置いて、▽状に縄張りされた城域は約52,000平方メートルの比較的小規模な平山城です。

城址では、これまで平成元年度~4年度、6年度、7年度、16年度~19年度に発掘調査が行われました。調査の結果、掘立柱建造物や城門、櫓、柵、塀の跡などが発見されました。出土遺物は瓦類が多く、銭貨、釘などの金属製品や漆椀、箸などの木製品、陶器や中国製磁器も出土しています。

久野城遠景

久野城遠景

築城から廃城まで

久野城の築城期を記した資料は少なく、明応年間(1492~1501)に駿河今川氏による遠江侵攻に際して今川家旗本の久野宗隆が築城したと伝えられています。
本間宗季が今川氏親に出した軍忠状には久野城のことが"座王城"と別称で記されています。
今川時代の久野氏と久野城の姿を伝える資料は少なく、歴代城主についても久野城主の肩書きを記した人物は系図等に数人確認できますが、明らかにはなっていません。
元宗が二代目城主と記した資料は総て江戸時代以降のものです。その後、城主となった宗能が天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い、上総国佐倉に移封されます。代わって豊臣系の松下之綱が城主となり、いわゆる久野藩が立藩されます。
家康の関東移封後の久野城は、戦略的に重要な場所にあって、関東・東海道の押さえとなっていました。之綱・重綱親子は城全域の大改造を行い、現在見られる姿になったと考えられます。しかし、天下統一を成し遂げた徳川幕府にとって、久野城のもつ戦略的価値は、ほとんど失われ、慶長8年(1603)の重綱移封に伴い、久野藩は廃藩となりました。
慶長8年(1603)に再び宗能が久野城に戻りますが、慶長14年(1609)に病没すると、宗能の孫宗成が家督を継ぎ、元和5年(1619)徳川頼宣に従って伊勢田丸城に転封となります。その後、北条氏重が移封され、21年もの間、領国の運営にあたりました。

久野城復元イラスト

松下期の久野城復元イラスト

(城主:松下之綱・重綱 天正18年~元和5年・1590~1619年)

作画:香川元太郎氏 監修:加藤理文氏・袋井市教育委員会

その後の久野城

北条氏重が寛永17年(1640)に下総に転封し、廃藩となると、城の管理は横須賀藩が行い、正保元年(1644)には廃城となりました。その後、城址は掛川藩に管理が移り、幕末には中泉代官所が管轄する土地となったことが記録に見えます。

『遠江国風土記伝』などによると、北条氏重の転封後、久野城は横須賀藩の預かりになり、正保元年(1644)にその短い命を終わりました。廃城は軍事面より政治面が重視され、城下町の中心として御殿が本丸から徐々に外へ移っていたことにあると考えられます。城下町を経営するだけの土地を持たない久野城がその役割を終えていくのは時代の要求でした。廃城直後は多くの建物が残され、大手門は掛川城の北門へ、城門は海蔵寺や油山寺に移築されたと『掛川誌稿』は記しています。
江戸時代前期、万治年間(1658~1661)に刊行された浅井了意の『東海道名所記』は、江戸から東海道を京に上った時の紀行文で、その中に「道より半里バかり右の方に、久野の城ミゆ」と記され、この頃までまだ了意が城と認識できる建物が残っていたのかもしれません。
江戸時代始めに廃城となった久野城は、その後竹藪となったようで、『遠淡海地誌』には、竹の子がよく取れる山であったと記しています。城址の管理は横須賀藩から掛川藩、挙母藩へと引き継がれ、幕末には中泉代官所であったことが『元禄高帳』や『旧高旧領取調帳』などから読み取ることができます。
 

久野城の調査について

調査について

久野城は、昭和54年10月1日に袋井市指定文化財の史跡に指定されました。基礎資料収集のため平成元~4年度、平成6・7年度、平成16~18年度において発掘調査を実施しました。また、城址の大半が平成4年度から平成6年度までに公有地化されています。

久野城発掘現場

久野城址 大手調査区(平成4年度調査)

出土した遺物について

久野城址からは日常生活の中で、よく使われる茶碗などの陶磁器や漆椀などの飲食器が数多く見つかっています。これら陶磁器類の中には、遠く明国(1368―1644)で焼かれ、海を渡ってきた染付碗や白磁、青磁が含まれています。国内で造られたものには、焼き物の生産地として有名な瀬戸(愛知県)や美濃(岐阜県)で焼かれたものも多く、知多半島の常滑(愛知県)で焼かれた甕とともに、志戸呂焼や初山焼などの県内産も使われていました。また、歴代の城主は茶道もたしなんだようで、天目茶碗や石臼などの出土もあります。
鶴の絵や花の模様が描かれた漆椀や箸、宴会などの時に使われる"かわらけ"という使い捨ての小皿も出土しているので、平時には城内でことのほか豊かな食事をしていたと考えられます。この他に"すす"が付いた灯明皿や器の内側に取手が付く内耳鍋、外側につばの付く羽釜も発見されました。
食器や調理器以外には、銭貨や金属製の武器、装身具などや、下駄、建物柱の一部も出土しています。また、石臼や硯などの石製品、城内で鉄製品を造っていたことを示す"ふいごの羽口"や"鉄くず"も出土しており、戦闘で使う刀や槍などの武器の製造や傷んだ兜や鎧の修理をしていたのかもしれません。
最も数多く発見されるのは屋根瓦で、城内には瓦葺きの建物が建っていたと考えられます。それら瓦の文様は、信長の安土城や浜松城、横須賀城、駿府城で使われているものと良く似ています。

久野城出土遺物

久野城址出土瓦

久野城址保存会の発足と活動

昭和52年、城藪の名で永く親しまれてきた久野城址において、宅地造成計画が持ち上がりました。住民それぞれに思い出のある城址を、今壊してしまってよいのだろうかという考え方が生まれ、城址を袋井市民共通の財産として顕彰し、未来に伝えていくため、同年11月29日、鷲巣地区の住民を中心に久野城址保存会は発足しました。
その後の活動で保存会は、久野城址の市指定史跡化をめざし、努力の結果、昭和54年10月1日、久野城址は袋井市指定史跡になりました。
市指定史跡化が実現して以降は、単に城址の保存と顕彰だけを目的とするのではなく、地域のシンボルとして、地域活動や地域づくりの核と位置づけ、平成元年からは市全域の保存会へと飛躍・発展させるため、法人会員を募集する等、組織の強化・拡大を図るとともに、会員自らの会費により保存会活動を展開しています。

また、久野城址保存会は、静岡県の「ふじのくに文化財保存・活用推進団体」の2021年度表彰団体に選ばれました。

久野城址保存会の受賞・表彰等
平成6年(1994)12月22日、静岡県文化財団「地域文化活動奨励賞」受賞。
平成8年(1996)11月18日、静岡県教育委員会表彰。
平成10年(1998)10月17日、袋井市制40周年記念に際し、久野城址保存会が市長表彰される。
平成15年(2003)3月26日、伊豆屋伝八文化財団奨励賞受賞。
令和4年(2022)3月28日、久野城址保存会が「ふじのくに文化財保存・活用推進団体」2021年度表彰団体に選ばれる。
令和5年(2023)、久野城址保存会、日本城郭協会大賞(公益財団法人日本城郭協会)を受賞。

パンフレット・ガイドブック

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課文化財係

〒437-1102
静岡県袋井市浅名1028
電話:0538-23-9264
メールアドレス:syougai@city.fukuroi.shizuoka.jp

みなさまのご意見をお聞かせください(生涯学習課)

返信を希望される方は、住所・氏名・連絡先(電話番号・Eメールアドレス)を記載して下さい。

このページの情報は役に立ちましたか?
このページの情報は見つけやすかったですか?
このページに関してのご意見がありましたらご記入ください。